対象書名:『アインシュタインの恋 上・下二巻』デニス・オーヴァーバイ著、青土社、各2400円+税
掲載紙:産経新聞
年:2003.6

 アインシュタインが友に贈った詩に、「上半身は考えたり計画したりするが、僕らの運命を決めるのは下半身」とある。本書は20世紀を代表する科学者の俗なる「下半身」を第一主題に、物理学革命をもたらす聖なる側面を第二主題にした、愛と研究の物語である。

著者はニューヨーク・タイムズ紙の記者。アインシュタインの自伝ノートの類は信用せず、幼年期から高校時代までの磁石やユークリッド幾何学や光の矢の思 考実験という、特徴的事項と思われるものも一瞥するだけで、すぐさま刊行中の全集資料や未公開書簡を駆使して、大学生生活から特許局役人、有名教授と上り 詰める男のゴシップ探しに精出す。

恋多き科学者だったことは、ここ10年来周知のことだ。高校時代の初恋は両家も祝福していた下宿先のマリー、大学時代の同級で初婚相手になるセルビア人 のミレーヴァ(婚前女児ができ、結婚後二男子ができる)、従姉で二人娘を連れて出戻り社交界で名を売っていた再婚相手のエルザ。いずれも二,三歳年上の女 性である。一時は相対論の共著者にまで担ぎ上げられたミレーヴァの科学的協力については著者は寡黙であり、第二のキュリー夫人になり損なったこの気鬱な女 性に対して、筆致はアインシュタイン同様冷淡だ。ベルリンに出たアインシュタインは、社交好きなエルザの料理を楽しみながら、20歳になった娘のイルゼに 恋を告白する。そのイルゼは、アインシュタインがはじめて共同で反戦の政治声明を出した、女たらしのニコライと恋に落ちるのだ。しかも神の言葉で書かれた といわれる一般相対論の重力方程式を、この間に樹立し、やがてミレーヴァとの離婚文書に署名する。いやはや、である。売りたてられた愛の手紙の数々は聖像 破壊効果はある。

確かにアインシュタインの等身大の像を知ることは、評者も賛成だ。しかし職場や公的社会的生活は省略され、数々の恋の空騒ぎと果敢な研究と、二極に揺れ るパロディ像では、いくら才筆で覗き趣味には受けても、人間理解の深みにまで達するわけにはいくまい。