対象書名:『無痛文明論』森岡正博著、トランスビュー刊、2800円+税
掲載紙:週刊読書人
年:2003.11

 本書は文明論という形を借りた思想闘争の 宣言書である。敵はどこにいるのか。われわれの内と外にいる。われわれの内なる身体の欲望と社会的に編成された外なる無痛文明である。すでに現代は、集中 治療室で安らかに眠る人間を、社会的規模で作り出しつつある無痛文明下にある。これらの装置を風化させよ。マルクスが資本主義という怪物と戦ったように、 戦士たちよ、自己解体し、よく見えない無痛文明と抱き合って自己解体させよ。
評者が意図的に著者の戦闘姿勢を強調しているわけではない。450頁を超える大部な書の至るところ、絶叫と進軍ラッパが鳴り響いている。全八章に分かれ てはいるが、言わんとすることは同じテーマのリフレーンだ。正直いって、読後しばらく、全共闘時代の取材を想起させる疲労感が残った。一つには、戦争と工 学の用語を頻発する森岡氏特有な語り口のせいかもしれない。「無痛身体を刺し攻撃し破壊し血塗れにし」「人生を生き切るために戦う」「自己解体させるに は、それを支えるボルトをピンセットで一本一本抜き取っていく作業を進めよ」「無痛文明よ、私と一緒に死のう。お前と私がこの無痛奔流に頭の先まで飲み込 まれて、ともにこの世から消滅しよう」等々。

ロマン派ヘルダーリンの再来か、自爆テロの陶酔か、といいたくなる熱弁である。

むろん著者は無痛文明と呼ぶ理論的論拠の構築にも身を砕く。
人間が自己家畜化を極限まで押し進めると無痛文明が現れる。無痛文明の兆候は疑似自然作りの「ビオトープ」の思想に見られる。動物園も水族館も本物の自 然環境らしく見せる。隅々まで自然があふれ快適な空間に見えるが、見えない地底にパイプを埋設し、葉陰に越えられない溝を仕組む。「ビオトープ」作りは、 部分と全体の二重にわたって巧妙に技術の介入を隠すから、二重管理構造だ。こうして全地球を管理するビオトープ化が進むだろう。自然を疑え! これは「循 環システムに支えられたエコロジカルな無痛文明」ではないか。ゲームセンター、妊娠中絶、安楽死などは、虚飾の都市で管理テクノロジーが勝利を収めている 一例だ。 人生も地球環境も、あらかじめほどよい快適さの予想の範囲内に収まるように、二重管理する怪物の支配下にある。こんな調子でどこまでも雄弁だ。

もともと無痛文明の出現は、快を求め苦痛を避け、快適な現状を維持し、すきあらば他者を犠牲にしても拡大する欲望(これを森岡氏は「身体」と呼ぶ)の外 部化なのだ。それが、人間を内側から変えていくような力、束縛を超え出て行くような喜び(これを「生命」と呼ぶ)を抑圧する。すなわち「身体の欲望が生命 の喜びを奪う」。ただしこの、無痛文明論の根源的構図にある身体も生命も抽象概念で、切れば血も出る一体となった身体的生命(この上に身体知は構築されて きた)とはほど遠い。驚くほど森岡氏の用語法はシステム工学の乾きをもつ。保身的欲望の「身体」から自己変革的意欲である「生命」を切り離し、それらがそ れぞれ「行き先未定のレーシングカー」のような「知」と結びついて戦う、という戯画的構図だ。「身体」と「生命」と「知」の三元論に立って、「概念装置の ネットワーク」に組み替えたというのだが、このシステム論法には異論も多いだろう。

「生命の中心軸」の自覚や「捕食肯定論」にも問題が多い。「自分が死ぬとき自分に肯定できるもの」が、「生命の中心軸」といわれても、死ぬときにわかる のではもう遅い。それが見つからないから大方の人間は悩むのだ。自らの中心軸に生きるなら、相手を捕食し犠牲にしてもよいとするのも、強者あるいはエリー トの強弁ではないか。知的弱者は、みずから風化する欲望、宇宙回帰という美名の下に切り捨てられないか。再考願いたい。

森岡氏は、はたして時代を予見する革命家なのか、新たな教祖の出現なのか、それとも誇大な風車に突入するラマンチャ男なのか、評者には今後を見守るしかない。