対象書名:『科学と宗教、合理的自然観のパラドクス』J・H・ブルック著、田中靖夫訳、工作舎、2005年12月、3800円+税
掲載紙:日経新聞
年:2006.2.17
科学と宗教の問題は、科学者の側からは、 昔のガリレオ裁判時代はいざしらず、ファラデイ流で処理されてきたと思う。「研究室を出たら科学を忘れ、教会を後にしたら信仰を忘れる」、と。もともと価 値観の違う二つの信念体系には会話の余地などない、というのが大方の通念であった。本書にはこの話は出ていないが、20世紀以降、時代の空気は明らかに変 わった。むしろ現代の理論物理学、生殖技術などに露呈される神聖領域の侵犯と論議領域化が、両者の接触と交流を不可欠の状況にしてきた。本書は科学と宗教 の関係モデルにこれまでの、敵対するか、われ関せずであるかとする、闘争モデル、分離モデルを捨てて、第三の互恵モデルに立って記述する。16、17世紀 の科学革命期から18世紀の啓蒙期、19世紀の進化論および20世紀科学の衝撃などをとうして、「互恵的」交渉を辛抱強く記述しようというのである。
著者は有機化学者から科学史に転向し、オックスフォードの神学部教授という。当然ながら、ここで「宗教」というのはキリスト教であって、イスラム教も仏 教も入っていない。例えばスピノザらの異端神学もわずかに顔を見せるだけである。しかし近代科学は、歴史的にはキリスト教的土壌において懐胎されたのだか ら、この限定は許されることである。
序章を入れて全10章からなる。空間に神が偏在するということで重力の無限遠達を考えたニュートン、いわゆるプロテスタントが新科学に貢献したとする マートン・テーゼの否定、ボイルらの自然の機械イメージと護教論など、読み応えのある論点が注目されるが、本書の価値を高めているのは、第五章からの、啓 蒙思想・自然神学・歴史学・地球史・進化論といった自然科学的思想の数々が、どう宗教と絡みあうかを、細部にわたって記述する部分であろう。ニュートン、 ヒューム、ダーウィンと英国思想界の大物がかかわるだけに、得てに帆を上げる執筆対象になったと思われる。
有益と思われる論点を拾い上げれば、プリーストリーの役割評価、ヒュームの言語批判とエジンバラ・サークル、カントの自然神学批判と自己組織化論、偽善 者キュヴィエ説批判、代替宗教としてのヘッケル主義やフロイト主義、等々である。「神によって創造された生物はすべて創造の日から存在する」という自然神 学は、巨大マンモスや化石の存在に戦いた。しかしまた自然神学を「自然の中に神の英知を認める」立場と解すれば、トロイの木馬のように、生物発生の自然法 則も、神の活動の証左となり、科学的思考に橋架けたといえる。科学と宗教との関係は、このように込みいっていて、一筋縄ではいかない。
ダーウィンは、生物が、聖書にいうように、個々に設計ないし創造されたとする「設計説」や「創造説」を批判して、自然選択による進化説を建てるのだが、 ダーウィン自身の信仰は、キリスト教の一般教義を侵害し、理神論から不可知論へと揺れていた。ダーウィン主義の外に有神論的進化論やヘッケル主義もあり、 本書はこれらを括った上で、進化論が英仏の政治情勢の荒海の中を教会勢力などとどう結びついたか、読みほぐしていく。
最後に量子力学における非因果性、不確定性、相補性などの問題が、かえって宗教との共通の広場を生みだしている現状を見て、終えている。本書は読み易い とはいえないが、豊富な事例が魅力であり、有力な示唆に満ちている。