思えばずいぶん長くこの桂坂の日文研に共同研究員で通ったものであ る。数年前に念願のスーパーもでき、だんだん周りも建て込んできた感があるが、足の便はほとんど変わりないのも驚きである。この間に、私は勤務先の大学が 三つ変わった。所在地も大阪府下の堺から茨城県つくばへ、さらに千葉県市原へと変わって、最後の大学を退職して鎌倉の自宅に落ち着いてから、もう数年にな る。2007年夏、創立20周年の記念シンポジウムに参加して、年月の経る速さに感心している次第である。
日文研では、伊東俊太郎教授を代表とする「日本人の自然観」や「文明と環境」から始まって、鈴木貞美教授代表の共同研究会に立て続けに出さしていただい ている。長く続いた「総合雑誌『太陽』の学際的研究」をはじめ、「生命科学から見た20世紀」「出版と学芸ジャンルの編成と再編成」「関西モダニズム」 「東アジアにおける知的システムの近代的再編成」「満州の総合的研究」 などである。この間に、日文研の外でも、私自身が仲間と主催した研究集会「世紀末から新世紀末へ」「時間と時」や退任後の伊東教授主催の「科学の文化的基 底」などもあったから、共同研究を重ねてきたという感じもする。
一番最初の伊東班の共同研究はことに印象的であった。草創期の研究会はエミタスの間借り部屋で行われた。そこで梅原猛初代所長の縄文文化論の熱弁を聞いたし、山折哲雄教授や氏やの
記念シンポジウムでは、欧米系の日本文化研究者たちから、日本文化研究の講座や研究機関の廃止・転換という地位低下と、中国・インド等の国力台頭に伴う アジア文化という文脈へ日本文化研究が埋没する危険が焦慮されたが、これを好機と見て、今後20年の戦略を立てるべきだと私は思った。
共同研究の面白さは、発表者の新奇な発表を聞いて自由にディスカッションする点にある。残念ながら、日本の風土においてはダイアローグ、対話も含めて、 討論とか討議というものが希薄であったし、今においても多分にその傾向がある。別に唯我独尊というわけでもないのに、黙ってしこしこと仕事を積み上げる 「その道ウン十年」のやり方が評価され、議論好きは口ばかりとか軽く見られる。
だいたいわが国の全集を見てもそうである。西田幾太郎、鈴木大拙、夏目漱石、等々の個人全集にも、当の本人の書簡は載せるが、相手の書簡が載ることはな い。対話を軽く見ている証拠である。欧米では対話が弁証法の基本であり、真理を見つける手段と考えられてきた。個人の文書館アーカイブを見てもそうであ る。たとえばアインシュタイン資料を集中的に管理しているエルサレムのヘブライ大学でも、かならずアインシュタインが出した書簡、受け取った書簡を対にす るための努力をいとわない。そのためにたとえばデンマークのボーア文書館と連絡を取って互いに手持ちの書簡コピーを交換して対にするのである。対でなけれ ば、その書簡の意義も半減するというのが自明のことなのである。
2008年4月2日 『日文研』no.40 掲載