Several Sacred Trees in Buddha Legend
仏陀説話にまつわる聖樹は多い。仏陀はBC463年頃ルンビニで生 まれ、カピラヴァスツの王舎城で育った。やがて城を捨て、前正覚山で修行してから悟りを開き、各地で獅子吼してのち、クシナガラでBC383年頃寂滅す る。その節目節目に仏陀にまつわる聖樹が存在する。仏陀の教えと聖樹は切っても切れぬ関係にある。ここでは、その時のいくつかの聖樹を同定しておこうと思 う。
聖樹としての菩提樹
仏陀にまつわる聖なる樹で有名なものは、ニランジャ川(尼連禅河)近くにあるブッダガヤのピッパラ樹(学名Ficus religiosa) 、いわゆるインド菩提樹であろう。
ピッパラ(pippala/pipal)は畢鉢羅樹、ボー(bo)の樹ともいう。仏陀がこの樹下に坐り悟りを開いたので、菩提樹の名がある。出家間もな く仏陀は前正覚山に籠もって6年修行したが、苦行を断念、供養に来た村長の娘スジャータから乳粥を受ける。その前正覚山から西南40-50kmのブッダガ ヤの地に、過去、未来の諸仏がその座(金剛座)で悟りを開いてきたという、聖樹ピッパラ樹が当時もあったし、いまもある。ヒンズー教の3大神ブラフマン、 ヴィシュヌ、 マヘーシュもこの樹上に棲むとされた。仏陀はこの樹下で、正覚を得たのである。
いわゆる三蔵法師の玄奘が、7世紀前半にこの地でこの菩提樹を見たとき、「しばしば伐採されてもなお高さ4、5丈ある」と書いた。玄奘によれば、アショ カ王が邪道時代に、この菩提樹を軍隊に伐らせ寸断して、バラモンに火を付けさせて天に祀った。ところがその猛火の中から2本の木が生えだし、「灰菩提樹」 になった。この奇蹟から、アショカ王は後悔して、残りの根に香乳を振りかけたところ、翌朝には元の樹に戻っていた。こうしてアショカ王は回心して仏教に帰 依するが、外道の王妃がその後夜半に伐らせてしまったときも、心を込めて祈り、香乳を注いで復活させたという。こうして菩提樹を取り巻く石垣がうまれた。 さらに玄奘の記述では、その後7世紀にもシャシャンカ(設賞迦)王の廃仏運動でこの伽藍が破壊され、菩提樹も水脈まで掘り下げて根本から切り倒し火を放っ た上、甘庶の汁をかけて腐らせようとした。アショカ王の末孫が悲しみ、数千頭の牛の乳を注いだところ、一夜でまた生えたという。その後、19世紀後半にも 枯れたというから、いま見る菩提樹は、何代目か後の再生株と考えられる。なお3世紀にアショカ王が贈った当時の苗木が、いまスリランカの寺院にある菩提樹 で、これが最古のものという。
BC1世紀のサンチーにあるストゥーパ1東門の石彫レリーフ像「悟り」には、信仰の対象に大きくピッパラ樹のみが経台上に描かれている。わが国で普通、 菩提樹(Tilia miqueliana: ミケル氏のシナノキ、の意)と呼ばれるものは、仏教が中国に渡って中国中部に野生する落葉高木のしなのき科の異種であり、『増補版牧野日本植物図鑑』(昭 和30年)にも、「此樹真正ノ菩提樹ニ非ザレドモ旧クヨリ其名ヲ冒シテ今日ニ至レリ」とあるように、本来の菩提樹と区別されなければならない。京都真如堂 の大木も夏に見事な淡黄色の小花をたくさん付けるが、これも中国産の菩提樹である。また、シューベルトの歌曲で有名なリンデンバウム、いわゆる西洋シナノ キ(Tilia europaea)もベルリンのウンター・デン・リンデンの並木にもなっているが、もちろん別種である。
本来のピッパラ樹は、分類学名ではくわ科のいちじく属Ficusで、Ficus religiosas、すなわち「信仰のイチジク」樹である。フィクスFicusは英語のfigsで、ローマ建国神話では、双子のオオカミ児ロムルスとレ ムスがその下に産み落とされた樹がFicusとされる。その仲間にはクワ、コウゾ、イチジクなど800種もある。問題のピッパラ樹は亜熱帯と温帯低地域に 広がり、高さ30-40mに達し、きわめて長寿で知られる。しばしば鳥の糞とともに種が運ばれて樹上に着生・生育して支柱根を垂らし、やがて合着して宿主 を覆い尽くすから、いわゆる絞め殺し植物の仲間である。目に見えるような花をつけず、ごく小さな雌しべと雄しべが凹んだ多肉質の花床にできるだけで、やが て堅い果実になる。材は数珠作りに使われる。枝はもろい。葉は9-17cmあり下膨れで先が尖ったハート型で、葉先は尾のように細い糸になる。この特徴的 な葉に仏陀の像などを描いて、土産にされている。
なお、ベンガル菩提樹(Ficus bengalensis)は異種の常緑樹で、高さ30mにもなる。葉は卵形で、コルカタ植物園に気根を500本余もたらした有名な巨木がある。シッダール ダ王子が生まれて数ヶ月後に、最初の瞑想をその樹下でしたという「樹下瞑想」の太くて黒い木は、「ブトウ」(蒲桃)(Syzygium cumini)とされる。ブドウの木の1種で、「ジャムン」また「ジャムブー」と呼ばれる。
仏陀寂滅の樹である沙羅双樹
『平家物語』に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」とある沙羅双樹は、仏陀寂滅の樹とされる。京都妙 心寺山内の東林院は沙羅双樹で有名である。毎年6月には、数珠かけの、樹齢300年という古木をはじめ10本ほどの沙羅の一日花が苔に散って見事である。 が、この沙羅の樹は、実は貝原益軒も「真ニ沙羅樹ナリヤ」と疑っていたように、本来のインドの沙羅の木とは違う。つばき科のナツツバキ(夏椿、 Stewartia pseudo-cameria)で、牧野図鑑にも「和名ハ夏椿ノ意ニシテ夏時ニ椿様ノ花ヲ開ク故ニ云フ。又沙羅樹ハ之レヲ印度ノ該樹ト誤認セシニ基ク」と ある。なお牧野説によれば、ツバキは厚い葉の樹、の意味で、春先に盛んに花を付けるので和字の椿ができたという。中国の「椿」(ちん)とは別である。
仏陀寂滅の地であるクシナガラには、もちろん本物の沙羅樹、原産地のインドではサル(sal)と呼ぶ並木がある。ふたばがき科の沙羅樹(Shorea robusta)で、高さ40mに及ぶ落葉性高木。下枝は5,6mもの高さから出る。若木の樹皮は滑らかな灰茶色で斑点があり、老木では粗い焦げ茶色の樹 皮に深い溝が走る。互生の葉は楕円形で先が尖り、長さ10-30cm。花は淡い黄色で3月から4月に現れ、小枝の先や葉腋から房状に垂れ下がって咲く。
ここクシナガラの涅槃堂には1876年に発掘修理された、5世紀作という長さ6mの大涅槃像が北を頭にして横臥している。その時80歳の仏陀は弟子アー ナンダが2本の沙羅樹の間に用意した寝椅子で臨終を迎えた。沙羅樹は釈迦族のトーテムの木とされ、王舎城のカピラヴァスティには豊かな沙羅樹の森があった と伝えられる。またヒンズー教ではインディラ神の象徴でもある。
仏陀出生の樹はどれか
仏陀が生まれたのは現在、インド東北部からネパール王国に少し入ったルンビニとされる。釈迦族であるカピラヴァスツ王国のスッドーダナ王子(後の淨飯 王)と、コーリヤ族であるデーヴァダハ王国のマヤデヴィ王女(摩耶夫人)は隣国同士の王族結婚をして、その間に王子シッダールタ・ゴータマ、後のゴータマ 仏陀が生まれる。その誕生地が緑と花の美しい地、ルンビニである。
伝説によれば、釈迦族の雨祭りの時、信心深く断食中のマヤデヴィは、自分の下腹部に菩薩が6つの牙をもつ白象の姿で入った夢を見た、とされる。そして妊 娠10ヶ月目に、初子を実家で生む釈迦族の習慣に従って、隣国の実家に帰省する途中、一行は緑豊かなルンビニ園を訪れた。このルンビニ園は、主として沙羅 樹からなるルンビニの森の木陰に、色とりどりの花の美しさで知られる庭園になっていた。ときに仏陀誕生は、ネパール暦の「ヴァイサッタ」、西暦では4月か ら5月、と推定されている。
マヤデヴィはここでにわかに陣痛がはじまり、神聖な池で沐浴してから、北に24,5歩のところにある樹の枝をつかみながら産み落としたという。いま見ら れる池はかなり大きな四角いプールに修復され、1939年以降の煉瓦でできているから、往時とは大きく変わっていよう。
5世紀初頭にここを訪れた中国僧法顕や7世紀の玄奘によれば、その木は無憂樹であったという。法顕の時はまだ誕生の樹が生きていて、玄奘の時は朽ちていたという。
無憂樹(Saraca indica/asoca)はアショカの樹(asoka)ともいわれ、インド、ネパール、ビルマなどに見られる。まめ科の常緑樹で、高さは10mを超え、 15mに及ぶものもある。焦げ茶色の樹皮は厚く少し溝があり、鱗のようなひび割れが見られる。葉は12-18cmもある長細で、波形をしている。枝葉は大 きく広がらずに、重なり合うようにして生え、地面に向かって垂れ下がる。低い枝では高さ1.5メートルほどのところに茂り、たやすく手が届くし、体重をか けても折れないほど頑丈である。4、5月には緑かかった黄色い花が大きな房状に咲く。花弁状に見えるが、萼筒が4裂し、雄しべが突き出たものである。
ネパールの考古学者バサンタ・ビダリによれば、マヤデヴィが右手で枝葉を掴んで、立ったまま産んだということから、この誕生の木は無憂樹に間違いないと する。仏教文献や彫像には、沙羅樹説も多いが、この樹には人手が届くところに枝は生えず、開花時期も3月から4月にかけてであり、疑問とされる。法華経な どでは誕生の木はプラクシャ樹(Ficus lacor)だといわれるが、これも低い枝は生えず、満開の時期が一致しないとされる。
『形の文化研究』第5巻(2009)、pp57-58