この冬、インド東北部からネパール南部を巡ってきた。雨期をさけた 乾期の2週間、バスとジープを乗り継いで、穴ぼこだらけ、ずたずたのインド式ハイウエイを行く八大仏蹟の旅である。いまでも目をつむると、悪路の連続に、 からだは激しく突き動かされ、揺れ戻される思いである。
夜遅くまで走っていたので、広大な原野や山林を染め上げて落ちる大きな夕日を、幾度となく拝んだ。ときに地平線の彼方まで広がる菜の花畑に出て、「月は 東に日は西に」も体験した。サトウキビ畑も多い。とりわけまだ柔らかな穂先が低く輝くシルエットになって、黒い水牛や山羊の背を映し出すとき、ああ、いま インドにいるのだ、と実感した。
釈迦の生まれたルンビニ、悟りを開いたブッダガヤ、初の説法をしたサルナート、涅槃の地クシナガルの四大仏蹟や布教伝道の名跡は、ガンジス・ヤムナ両河 流域、古代北方交易ルートの一端にある。150年後、仏教普及のアショカ王は、このあたりに十本近い石柱を建てている。
古代の二大王国、コーサラ国とマガダ国に挟まれた直線距離で800キロ、東京・広島程度の範囲にある。往時は、鉄製品や穀物・乳製品、衣料品などの交易 品を満載した船や、雄牛に牽かせた二輪荷車の長い行列で賑わっていたことだろう。老病死の無情を悟って出城した王子ジッタルタが、釈迦として活動した区域 は往時のビジネス地域なのである。
それから2500年後。この仏蹟地帯はいま、インド最貧といわれるビハール州を中心に、ウッタル・プラデーシュ(UP)州にかけてある。ハイテクとは疎 遠な、化石時代さながらの集落点在地域。集落の中心部には埃だらけの市場がある。人と牛と車でごった返し、果物や豆類、衣料が並ぶ。舗装もすぐ切れ穴ぼこ が続く街道は、すべてそういう市場に集中し発散するから、中心部は混沌状態になる。交通信号などはついぞ見たこともない。「Horn, please!」(警笛どうぞ)と、どの車の後にも貼ってある。急ぐものは、やかましく警笛を鳴らしながら、威圧して道を譲らせ、反対車線だろうが、動け るときには驀進し、よく横転する。
インドは奥が深い。40年前、入院中とはいえオオカミ少年がまだいて、それを取材して週刊誌の記事にしたラクノーにも、今回寄った。ここはUP州の州都 で、農村的貧困とは無縁である。ビハール州では義務教育もない。子供は親の仕事を手伝う。したがって乞食の子は乞食になるわけだ。仏蹟もそこに至るインフ ラも、整備以前、観光以前である。
インド的混乱は、まずバンコック経由でコルカタ(カルカッタの名が懐かしい)に入って始まった。駅近くのマーケット火災と空前のデモ騒ぎ。デモ参加者を 屋根上まで満載したバスが、前後左右に押しあっていた。なんとかわれわれのバスは、逆方向の橋から脱出して、夜行列車に飛び乗れたが、それからもピケとお 祭とお偉方には勝てないことを何度も思い知らされた。多くの場合、街道を降りて迂回するしかなかった。
ベナレスの沐浴地からいよいよ仏蹟巡りに入ってまもなく、ピケに出会った。プロパン業者がガスを薄めているとかで、緑のボンベを5、6個、道に並べて村 人たちの抗議である。外国人だからお許しを、とガイドがいっても、ガンジーもどきの指導者は、聞く耳を持たない。
村祭りも予測できないのが悩ましい。中心部を抜ければ、旧マハラジャ(藩王)の別荘ホテルまで数キロというところで、人と御輿・屋台のカオスにはまっ た。初めは写真撮ったり、店先をのぞいたり、チャイを飲んだりしたが、3、4時間たち、深夜になっても動けない。けっきょくホテル手配のジープ一台にぎゅ う詰めになって、われわれは脱出した。
お偉方のお通りにも恐れ入った。もう宿泊予定のホテルに近いというのに、車列が動かない。州知事が視察にくるとかで、前もって交通規制しているのだ。宿 泊先のホテル経営者が自家用車で迎えにきた。顔パスの先導で反対車線を、羨望の視線を浴びながら、ゆうゆうと逆行した。
街道の橋もよく流される。狭い迂回路はあったが、バスが穴にはまってひっくり返る心配がある。ジープに分乗して、農道を飛び上がりながら何時間も走っ た。ピケの練習か、子供たちが竹ざおを道に渡している。
交通渋滞のおかげで詳しくなったのが、農家の庭先で見る牛糞の積み方である。牛糞は切り藁と泥を混ぜて、レンガ状か円盤状にする。それを乾燥させて燃料 にするのだが、レンガ状なら、格子状に隙間を空けて横積みするか、みごとな螺旋状に山積みするかである。円盤状では、チャパティのように小屋や岩に貼り付 ける。大きさによるが、1ルピー(3円)で1、2個買えるという。農婦のいい現金収入源なのである。
牛糞は古代からの貴重な燃料であり、焼け残った灰土は金属器を磨くのによい。釈迦の時代からの、むだのないエコ技術である。牛糞レンガをお土産にと思っ たが止めた。税関をのけぞらせたら、あとが怖い。
2008年 『日本エッセイスト・クラブ会報』no.60-1 掲載