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日本の歴史に見る科学者たちの特性
わが国に初めて西欧の科学技術が入ってきたのは南蛮時代の16世紀以降である。一般にはわが国の近代化は散切り頭や鹿鳴館に代表される明治の文明開化によって代表されるが、「もう一つの文明開化」といえる時期が、戦国末期から江戸時代を通して先行していた。
それは、南蛮文化とキリスト教がジパングに押し寄せた第1期と、オランダ文化と実学が導入される第2期である。明治近代化の時期は、19世紀の産業革命を経た産業科学ないし工業技術の時代であって、いわゆる17世紀の科学革命の息吹は、まず鉄砲伝来から島原の乱を契機とする鎖国政策に至るまでの漢訳文献を含む南蛮学と、享保の改革以降の和蘭交易を維持する過程で、同じく漢訳文献を含む蘭学・英学に伝達されてきた。
本稿では、4人の歴史上の人物を通して、日本の科学者像の特性を考えてみたいと思う。すなわち、初めて西欧を実見した少年使節団の1人、千々石ミゲルの理科的好奇心を、天理を重んじた西川如見の数理的実用主義を、シーボルトの弟子、伊藤圭介の博物学的集団研究の情熱を、最後に日常現象の細部に挑んだ寺田寅彦の柔らかな自然観察眼を、である。
1.千々石ミゲル、最初の理系人間の好奇心
近世初頭の日本人が知的好奇心に溢れ、とりわけ科学的な関心が強い、という宣教師たちの証言がある。
ゴアに戻ったザビエルは、ローマのイエズス会総会長宛書簡に、日本で布教を望む宣教師は多くの質問に答えられる哲学者、弁証学者であることが望ましく、さらに「宇宙の現象のことも識っているとますます都合がよい」とした。グレゴリオ改暦を仕上げたクラヴィウスの弟子で、長崎で殉教するカルロ・スピノラが長崎から出した書簡には、数学が布教に役に立つとして、ザビエルの直観の正しさを二半世紀も後になっても正当づけている。「数学は親密な雰囲気の中で、主だった殿たちの中にうまく入り込むのに非常に役立ちます」とあり、初期和算形成にスピノラらのバテレンが関与する有力な動機になった。
確かに天正少年使節団4人は、九州のキリシタン大名派遣の、当時13歳から15歳の少年たちであったが、知的好奇心と習熟力の高さをはっきりと証明していた。
航海中に航海術・天文学・語学などを学び、西欧の見聞もあわせて、驚くほどの西欧文化理解を示した。詳細な報告が1590年にマカオで出された『天正遣欧使節記』ラテン語版(日本語訳は昭和期まで出ない)である。前書きに巡察使ヴァリニャーノが、「使節みずからの記せるところより採録・按配」したとある。すなわち、ミゲルを含む少年使節の面々が書き付けた日誌類や覚書を軸に、補足説明を加え、全34回の対話篇にしたものである。
これを読んで、思慮深くラテン語を自由に操った日本イエズス会の秘蔵子、原マルチノの文系的素質に驚嘆する以上に、対話篇で説明の主役を演じる千々石ミゲルの理系的論理性、科学的把握力に深く感じ入った。わが先人たちが異国文化理解能力を十二分に示してきたことは、聖徳太子、阿倍仲麻呂、空海などを上げるまでもない。しかし理系人間の記録としては、この千々石ミゲル(1569-1632)が最初ではないか、と思うのである。
ミゲルは、8年間の大世界旅行で21歳の青年になって、1590(天正18)に長崎に戻ってきた。地球を半周してスペイン王フェリペ2世に謁見し、教皇グレゴリオ13世の抱擁を受けて、16世紀世界史の俗と聖の最高権威に会った最初の日本人の一人である。しかしミゲルは帰国後10年までには、4人そろって入っていたイエズス会を脱会、還俗して清左衛門になり、妻を娶った。そして大村藩に仕えて伊木力に知行600石を受け、さらに、加藤清正の勧告もあって領主大村喜前ともどもキリスト教を棄教した。しかしその大村藩からもやがて追放され、有馬藩に身を寄せる。ここでも摩擦を起こして家臣に傷つけられ重傷を負ったが、一命は取り留め、長崎に逃れたというのである。以後の経歴は不明である。
島原半島にある千々石氏縁の釜蓋城祉からは、遠く白砂青松の千々石海岸が美しい弧を描いているのが見える。そこにミゲルの記念碑がある。脱会先のイエズス会文書によると、ミゲルの病弱、意志薄弱が取りざたされるが、これと、脱会前の対話篇『天正遣欧使節記』で説明の主役であるミゲルについての記述との落差が大きすぎる。私は、脱会も脱藩も、西洋の理法に目覚め、「一個の世界人」を自覚した理系人間の、悲劇と考えている。
その理由はこうである。
まず第一に、千々石ミゲルはその論理性、記述能力などが抜きん出ていたらしい。書中で仲間の伊東マンショがミゲルに「哲学者」の役を担って問題の原因を残さず説明してほしい、と呼びかけ、中浦ジュリアンが、「事柄そのものを記憶に留めるさえなかなか困難なことであるのに、途上無数な危難を凌いで、事実を一つ一つ備忘録に記入するのは、とても人間業とは思われない」と、ミゲルの集中力に感嘆している。
第二は、科学的把握力の素晴らしさである。実物の天球儀や地球儀、その他の観測機器などを示しながら、天文学・地図・航海術の詳細が、初めて日本人ミゲルの口を介して語られていく。もちろんヴァリニャーノの作文はあろうが、ミゲルの利発さがなければこうは踏み込めまい。西洋の地図にある日本の小ささを見て「でたらめさ」をいうものに対して、「誤りは絵図になく、それを見るわれわれにある」とミゲルが諭す。地図の度盛はつねに一度が、北から南に一直線に測れば、十七レグア半(日本の一里=〇・七レグア)で、ただ「縮尺の都合によって、時に大きく時に小さいこともありうる」と説明している。
第三に、旺盛な知的好奇心である。初見の西洋の事物に接して飽きることがない。マドリッドで見たゾウやサイ、トレドの鐘や時計、ヴェネチアの造兵廠アルセナルの武器庫、ガラス生産の島ムラノの工人たち、城塞都市ミラノの大砲網、殿様の収入や馬術の日欧比較、馬の脚に藁沓をはかせる程度であった日本人の目にも鮮やかな蹄鉄の威力、などなど。
こうして理系人間ミゲルは、「全世界に直属する一個の住民であり市民だ」、という心境に達する。16世紀末という安土桃山の動乱期に、封建領土をめぐる争いの世から世界市民へと超絶しようとした人物が、このミゲルだったとすれば、最後の対話の中で、「自分を生んだ祖国に対する断ちがたい絆を離れて、万事を公平に見渡し、そして公正な秤にかけて」、という言葉が、その後の脱会・脱藩の決意と重なったのではあるまいか。
司祭になった三人の内、伊東マンショは長崎のコレジヨで病死し、原マルチノはマカオに逃れて死に、中浦ジュリアンは長崎の丘で刑死した。不明だった千々石ミゲルは、2003年末、地方史家大石一久氏によって墓石が確認された。所在の長崎市郊外多良見町山川内郷はミゲル旧領の伊木力村にある。大きな安山岩自然石に、妙法と題して「本住院常安」という清左衛門ミゲルの戒名が刻まれ、裏には没年「寛永九年十二月十四日」とある。
2.西村如見、知の公開を主張した民間の天文地理学者
西村如見(1648-1724)は、江戸中期長崎の破格の町民知識人、天文人文地理学者である。
一般には『町人嚢』『百姓嚢』といった嚢物の著者として知られた。もちろん朱子学が基礎にあるのだが、新たな産業経済に立つ社会層の理念を先取りした。「人と天地と二つにあらず」、なぜなら人に一を添えて大とし、大に一を添えて天としたからだ、と述べ、天地の直道、天人相関は「直」であり天理である、とした。農民ならば暦によって耕作収穫の天の時を知り、東西南北、地土の方位によって変わる地気のことを地理学から学ぶべし、という。また「真の商人」とは「利徳を得る」ことで、「天下の財物を通じ国家の用を達する」のである。愛国者であった。「利徳」というあたり、買利を認め正直と倹約の商人道を説いた石門心学の先駆ともとれるが、違うのは、石田梅岩が神道と結びつくのに対し、如見は西洋の実学を取り入れ、進取の気風に満ちている点にある。
西川家は曾祖父以来、南方貿易で活躍した貿易商といわれる。父は長崎の有力町人(地役人)である。如見も糸割符貿易の糸目利を職にしていた。当然、出島にも出入りしていたと思われる。長崎郷学の教官として下った木下順庵門の南部艸寿に儒を学び、また、キリシタン容疑で処刑される長崎南蛮天文学の第一人者、林吉右衛門の門統にもつながった。
如見は著書『天文義論』の中で、天には命理と形気とあり、その学、天学には、天下の道理を究める天理の学と、形によって天象を証する形気の学がある、とした。形気の天学は、その是非が紛れることはない実証的な天文学で、七曜衆星(日月五惑星と恒星たち)の運行を明らかにし、天文の理の「易」、天文の用の「暦」を定めるのを目的とする。
こうして究理の精神から、天体の「道理」を実測にもとづいて検討することを鼓舞した。蘭学輸入以前の南蛮天文学を、朱子学と整合させる努力を果たしたのである。
儒教的自然観に立ちながらも、如見の学問には、それを超えて機器による観測を基本と見る新しさがあった。戎蛮の天学(西洋天文学)がより優れているのは、事中の事である地理・行舶術(航海術)・地図測度器の地測三点を重視した点にある、と明快である。
こうして地測の実学的重要性に注目した如見が、世界の文化地理学の代表作『増補華夷通商考』や日本についての『日本水土考』『水土解弁』などを書く。天文よりもまず地理を知るべき、として、中国や西欧など諸国について、日本からの里程・方角・気候・人口・物産・交流状況などについて詳述した。しかも天文学者らしくそれぞれの緯度も記した。
如見の令名は、天文学を愛好し改暦を意図していた将軍吉宗の耳にも達した。すでに71歳になっていた如見は、江戸に召された。暦書を献じ、大吏を介して下問に答えた。江戸から戻って6年後、長崎で亡くなっている。
如見の真骨頂は、学芸者の秘密主義を手厳しく批判したことにもある。わが国の近代化において、科学的合理主義が受け入れられるには、知のあり方が秘密主義から公開主義に変わらねばならない。家伝とか相伝とかいって、知識を門外不出にしている社会では、科学も技術もはばたけない。如見は、秘密口伝の大事と称してたぶらかすものを攻撃した。
『町人嚢』で、「口訣秘密」には四品あると、如見は注意する。実秘、隠秘、利秘、妄秘である。学問の真理を功を積んだものに伝えるのが実秘、聞く人の信心がまだ足りないときにあえて秘するときは隠秘、自分の利得を考えて隠すときは利秘、知らないことを言い逃れるときに隠すのが妄秘である。利秘、妄秘の類は言語道断である、とした。
考えてみれば、学問の知的独占を突き崩すきっかけは、明らかに室町末期から織豊時代にかけて流入し始めた南蛮文化との出合いに始まった。コレジオなどで養成される知識人が出現し、新たに勃興する算学や本草学の分野で武士・医師・商人・農家などの知識人が主たる担い手になり、儒者は少数派になった。この傾向を加速しやがて江戸町民文化を決定づけたのが、キリシタン版の南蛮活字と秀吉の出兵による朝鮮活字の導入を受けて、新たな情報媒体となる木活字・木版などによる廉価な印刷本の登場であった。これらを挺子として、江戸期において知識生産層と知識消費層が飛躍的に増大する。一方、たしかに武士や町民で学問の道にはいるものが増えたが、長年の儒者学者(この筆頭に代々の大学頭を出す官学の林家が君臨する)との間には長いこと明確な線が引かれていた。柳田国男のいうように、前者は「道楽」、後者の儒者学者が「本職」と見なされる悪習を絶つには、なお明治の新時代を必要としたが、西川如見はこの地均しをやってのけたのである。
3.伊藤圭介、結社システムと植物学の始祖
好奇心から研究が萌芽し、それを確固としたものに育てるには、研究者同士の相互批判と協力、研究業績の認定(プライオリティ問題)が必要である。そのための科学的学会が、西欧諸国においては17世紀後半以降に生まれていく。こういう科学の第一次制度化が、近代科学を展開するには必要不可欠であった。さらに、19世紀の大学制度・博士制度・研究費負担の国家化などが第二次制度化で、両制度化はわが国では明治期以降に実現する。
江戸日本でも文政期以降、単なる学塾ではなく共同の研究会といった組織が、博物学グループで見られた。富山藩主の前田利保、筑前福岡藩主の黒田斉清を中心とする江戸の赭鞭会、やがて伊藤圭介を輩出する尾張名古屋の嘗百社などである。結社としての嘗百社は、小野蘭山門下の尾張本草学派の水谷豊文を盟主にして文化期に生まれ、共同調査や集団検討が展開された。ただし中国神話の神農に因む嘗百社の命名は圭介の兄で漢方医の大河内存真による。社中15人が師と兄弟弟子である大垣の飯沼慾斎と連れ立って、菰野山に数日間の採集に出かけた模様が、同行の画家によって描かれ残されている。草を採り蛇を捉える仲間たちを、笠をかぶった圭介が岩に座し、慾斎が中腰で立って眺めている図である。
また江戸・京都・大坂を追って尾張でも豊文が、動・植・鉱物の標本を持ち寄る第一回薬品会を呉服町の伊藤邸で開いた。第三回以降は伊藤圭介の主催で開かれている。もともと薬品会と呼ばれる物産会の企画は、浪人した平賀源内が、将軍吉宗の物産奨励方策を受けて構想したものである。元禄期の稲生若水、貝原益軒、松岡恕庵らの登場によって、本草学の研究がすすんだという背景がある。諸国に出品を呼びかけた源内考案の引き札には、「神区奥域」の自然に恵まれた日本にはまだ薬料になっていない動植鉱物が「未ダ尽ク出デズ」だが、これが開発されれば「漢蛮商舶」の舶来品に頼らず国産化できる、どうか「其ノ知ラザル所ヲ知ランコトヲ」とある。
たしかにこれらは共同研究組織や共同事業の形態はとっており、単なる好事家的同好会の域を出ているが、ロンドン王立協会やパリ科学アカデミーとは制度化の成熟度で比較にならない。西欧では初期の学会でも規約をもち、当時の王権に認知され、なによりも研究の自由と先取権を保証するシステムが工夫された。論文を掲載する学会誌もやがて生まれていった。学会は科学研究の二面性を認めながらそれを円滑化する仕掛である。すなわち、科学者は、一方では研究成果の公表により知的独占を放棄するが、一方ではそれを補償する知的優先権の認定を共同体から受ける。さらに学会は、各種報償制度の整備によって研究を支援するシステムなのである。この種の学会は明治期にやっと導入されるのである。
わが国では算学の流派にみられるように、権威を維持する家元化に傾いて、ために知識を上意下達する縦システムが優先して、自由な討議と批判を許容しながら相互的に知識を共有する横システムの制度化が抑えられてきた。これは一つには江戸期を貫く政治的な幕藩体制の反映でもある。科学技術の受容には、時代的制度的制約も大きいであろう。
伊藤圭介(1803-1901)は漢方医西山玄道の次男であるが、父方の実家、伊藤家を継いだ。若い頃から俊才の誉れが高く、父・兄と共に博物学者の水谷豊文に師事して本草学を学び、16歳の頃から師らと共に尾張・伊勢・志摩・美濃・信濃などに採集旅行を繰りかえした。その間、父・兄から漢方を学んで、18歳のときには町医として独立した。
やがて野村立栄らの刺激を受けて蘭学に目覚め、京都に出て、蘭和辞書『訳鍵』を編纂した藤林泰助に学んだ。また京都本草学の中心人物、山本亡羊にもついて知識を深めた。圭介の京都留学は2年に及んだが、その間に山城・摂津・和泉・伊勢・志摩の各地で標本採集をしている。名古屋に戻ってからは蘭医吉雄常三に師事した。圭介はこのように当代一流の人物から学んだ上に、シーボルトと運命の出合いをするのである。
1826年、熱田の宮の七里の渡しの宿で、圭介と師の豊文は江戸参府途上のシーボルトを出迎え、次の宿地まで同行した。シーボルトは必要な本や器具を詰め込んだ「動く研究室」と呼ぶ篭のなかで、硬い鉛筆で標本同定の仕事をつづけた。とりわけ熟達した豊文による精緻な2冊の標本画帳は、シーボルトを驚嘆させた。画帳にある植物名がすべてリンネの分類にもとづく属名102を挙げていて、「私はたった四つの誤りを指摘することができただけであった」と、『江戸参府紀行』に書き留めている。シーボルトは水谷豊文を「博物学の偉大な友」と呼び、また「後日私の研究におおいに貢献する」圭介との出合いに感謝した。一行は参府帰りのシーボルトを再び迎え、圭介は長崎行を決断する。
長崎には、師による動・植・鉱物和漢対訳の書である『物品識名』とさく葉標本を持参して、標本を点検しながらシーボルトに『物品識名』の植物の学名を教えられた。シーボルトに師事したのは半年ばかりであったが、鳴滝塾の卒業論文として、圭介はオランダ語で「勾玉考」を纏めて提出している。
圭介の帰国に際して、シーボルトは先人ツンベリーの『日本植物誌』を贈った。リンネの高弟であるツンベリーが1778年(安永7)に来日したとき長崎の植物を調べ、リンネ式分類をしたもので、シーボルトの座右の書であった。圭介は帰国後この書物を研究して、わが国初の西洋植物学によるリンネ式命名法と分類法の紹介書になる代表作『泰西本草名疏』を刊行する。1829年、27歳の時であった。
いわゆる出島三学者のなかでもシーボルトの影響力が大きかったのは、ひとえに出島の外にこの鳴滝塾という共同研究の拠点を持って、日本各地からから参集する有能な日本知識人たちに外科手術や医学・植物学・地理学など当時の西洋の科学的知識を伝授したためである。シーボルトはこうした弟子たちにはその協力を謝して、医学や植物学の書物、外科器具や顕微鏡、ときには礼金を贈り、ときに西洋医学習得の証明書を出している。シーボルトの日本「万有学」とも称した博物学的研究は、こうした各地の弟子たちの協力の上に成立した。実物や見本を入手し、模型を作らせ、動植物は標本や剥製にし、風俗その他はお抱え絵師の川原慶賀に大量の絵を描かせたのである。一種の集団研究の成果であった。
阿波の美馬順三は、初代の鳴滝塾都講(塾頭)になった。順三は、江戸中期の産科医賀川玄悦の『産論』をオランダ語に要約してシーボルトに提出した。これが1825年にバタビア学芸協会の雑誌に載った。おそらく日本人の国際誌登場第一号である。周防の岡研介はシーボルトと面会者を取り次ぎ、貝原益軒の『大和事始』を抄訳した。後に都講になった阿波の高良斎は眼科学を学び、多くの論文、『日本疾病志』『生理問答』などを提出した。陸奥の高野長英は翻訳力を買われて鳴滝塾に住み込み、『日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法』『鯨並びに捕鯨について』『南島志』など多くの執筆・翻訳をした。美作の産科医石井宗謙は順三らと共同で『灸法略説』を訳し、日本産の蜘蛛について論文に纏めた。
圭介は1861年に幕府の蕃書調所に召し出され、江戸でも知られるようになった。明治以降は文部省や大学と関係ができて、小石川植物園の整備に力を尽くした。やがて79歳で東大教授となり、次いで1888年(明治21)にはわが国初の理学博士になった。
4.寺田寅彦、 風雅な眼と「底を抜く」科学者
明治近代化の中で、西洋の制度や科学技術を吸収する一方、日本人としての精神的矜持はもちつづけるという意味で、「和魂洋才」が強調された。しかし西欧の精神的所産を体得するには、洋魂にも十分な目配りがなければかなわない。
近代化に忙しかった明治科学者の多くは、国際競争の場に立とうとしたとき、そもそも日本人に科学ができるのか、と真剣に悩んだ。その典型が、後に物理学会の雷親父といわれた、若き日の長岡半太郎である。1882年(明治15)帝国大学に進むが、まもなく病気で1年休学、その間、東洋人に研究能力があるかどうかで悩み抜いた。そして磁石・印刷・火薬の3大発明を生んだ古代中国科学の成果を学ぶことで、やっと自信を取り戻し、物理学科に進んだ。近代科学の自立化を目指し奮闘した、わが国の第1世代であった。長岡らの後を追う第2世代に寺田寅彦・石原純らがおり、次の第3世代にあたる湯川秀樹がノーベル賞を受賞したというニュースを聞いて、第1世代の長岡は亡くなるのである。
寺田寅彦(1878-1935)は同じ漱石門下の小宮豊隆から「俳諧の底をぬく」という芭蕉の言葉を聞いた。つまり俳諧という桶に底をいれたら、そこでその人の俳諧は行き止まりだから、それを突破せねばならない。寅彦は返信で、俳諧の本質は「風雅」すなわち「忙中に閑ある余裕の態度」と見、科学にも通じるとして、「科学の底を抜く論」を述べた。「もっとも僕の科学ははじめから底なしのどぶ泥のような、えたいの知れないごまかしものかもしれない」、とも記した。別の随筆で、科学の底を抜くほどの研究者になるには、科学者は頭がいいだけではダメで、愚かな自分を自然に投げ出す愚直さも必要、とした。 寅彦の父利正は代々の土佐士族寺田家の養子で、陸軍会計監督として西南戦争に従軍した。長男の寅彦は、高知県立中学を経て旧制五高の熊本第五高等学校第二部に入り、そこで英語教師の漱石と数学・物理学の田丸卓郎(後に東大教授)という2 人の師に出会う。田丸によって物理学(と音楽)への眼を開き、漱石を介して俳諧と文筆の妙を知り、東京帝国大学理科大学入学後には、「ホトトギス」を主催する正岡子規と交わる。
寅彦は、東京帝大教授となり、あわせて理化学研究所、航空研究所、地震研究所にそれぞれ研究室を持ち、音響学・磁気学・結晶回折学・地球物理学など幅広い分野で活躍をした。随筆家の影にあって意外に思われるが、論文も数多く、英文論文だけでも3000頁に及ぶ。ただし寅彦流の、日常茶飯事に問題を見抜くという手法は、当時の重化学工業化を急ぎ産業技術への傾斜が進む状況の中では、「堀建て小屋の物理学」と悪口をいわれた。
『猫』の寒月君の「首縊りの力学」や、『三四郎』の野々宮さんの「光線の圧力」とい
った漱石の話の素材は、理科大学地下室の穴蔵での研究場面の活写も含めて、みな寅彦が提供したり案内したりしたものである。『猫』以前からの漱石の弟子は、「まあ僕一人くらいだった」と中谷宇吉郎に自慢したというが、その通りであったろう。寅彦は研究に飽きると漱石宅を「襲撃」するくせがあって、話の種をふり撒くのである。
漱石没後の寅彦は、先の穴蔵で、1924年(大正13)に世界に先駆けて結晶のX線回折像の撮影に成功したが、ほぼ同じころドイツのラウエもこれに成功、船便で1ヶ月半もかかる日欧間の情報ギャップは争えず、先に発表したラウエにノーベル賞をさらわれた。この挫折体験も寅彦の日常物理学化への傾斜を速めた。しかし急がば廻れの諺にあるように、寅彦が注目した割れ目や縞模様といった形の物理学は、今日のカオスやフラクタル、自己組織系研究などの研究の隆盛をみると、きわめて先端的なものであったことがわかる。
寅彦はイチゴの絵にローマ字で、「好きなもの いちご コーヒー 花 美人 袋手して宇宙見物」、と書き添えた。夜空を仰ぎながら、美人とともにイチゴを一つ口にしたら、寅彦の原体験に近づけるかもしれない。亡くなる1年前、1934年の、いかにも自然体の科学者らしい一首である。死後、風呂敷に染められて親しい人たちに配られたという。
以上、日本科学者の原型4人を取り上げたが、知的好奇心、実学との連携、集団研究、愚直な独創性という特性から、科学者のあるべき姿の一端が照射されていないだろうか。
参考文献
全体には、上野益三著『日本博物学史』、平凡社、1973年、同著『博物学史論集』、八坂書房、1984年、磯野直秀著『日本博物誌年表』、平凡社、2002年、のほか、スピノラ、伊藤圭介、シーボルト、寺田寅彦らの項は金子務著『ジパング江戸科学史散歩』、河出書房新社、2002年、千々石ミゲル、西川如見らの項は同じく拙著『江戸人物科学史』、中央公論新社、2006年、参照。
『科学』78巻1号(2008年1月号、特集・日本人とは何か)、pp.66-72
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